家庭のはなし

健全で明るい家庭

ってめちゃめちゃ不健康そう。
そういう家庭って絶対内実不倫とかしてるんだよ。それで子供にはいいような顔ばかり見せてお互い夫婦間も全部うまくいってると思ってるけど本当はどんな家庭よりもギスギスしてて子供はそれを察して不安定に育つんだよ。

不幸な物語を読みすぎなのかもしれないですね。

雪のはなし

今日は雪が降るという。

子供の頃から雪が降るというと、「雪国」の冒頭のような、歴然とした漂白の世界をイメージしては、現実とのギャップを見て悲しんでいた。

小さい頃から白いものが好きだった気がする。豆腐は苦手だ。洋服を選ぶと決まって白い服がある。

サハラ砂漠にも約40年ぶりに雪が降ったらしい。砂漠に人が住んでいるのかなんてよくわからないが、見つけた人は空から舞ってくる白いものがなにかわからなかったかもしれない。
砂ぼこりかと思ったかも。

パークはアナ雪の季節だね。ベタなお話だなと初回から思ったけどなんだかんだで何度も見ているし、あの世界を眺めているのは好きです。

そういえばこないだ地上波で「君の名は」を見たんですが、劇場で見て、飛行機でも見たからもう三回目。何だかんだ好きなのかもしれない。
という話をしたらあれ面白いかなと誰かに言われた。おっそういう人かと思ってみつはが死なないの許せないですよねといったらめっちゃ口悪いじゃんとも言われた。誰に言われたんだっけ。

大好きなところのはなし

世の中は醜くて、それは知っているんですけど、どこか虚構を受け入れたくはないので、常に希望を持ってしまっています。

私は夢を見るのが好きなんだとおもいますね。
空想の世界で誰かが故意に作り上げた幻想であっても、それを見て、わーいたのしーってやれてればそれが正解なんだと思っています。

そういう人たちが前のバイト先にはたくさんいました。私たちは夢を作っていました。美しいものだけを魅せるために教育されていました。

落ちているゴミを拾うのは当たり前です。女の子が買ってもらった風船に喜んで、くるくる回っていたら風が強く吹いてきて飛ばされてしまいました。見つけた私達はすぐに言います。「大丈夫だよ、今から魔法で元通りにしてもらうからね‥‥」
お母さん一人と小さい子二人つれて遊びに来たんでしょう。とても大変そうです。そしたら荷物をもってあげますね。
これが自然になります。

私達も夢に浮かされているし、相手も夢に浮かされています。
でもこの世界での優しさは多分虚構じゃない。最初は虚構で模倣で義務だったかもしれない。「そうしなければならなかった」

憤りを感じたことはあまりありませんが、強く呆れたことは何度もあります。

私達は優しくあることを求められていた。「すごいね」「こんなことまでしてくれるんだね」
最初の半年はこの言葉を引き出すために、こんな教育を施して徹底しているが、なんて偽善的なんだろうと思っていました。

でも笑顔に偽物はないんです。私はあの場所でたくさんの嘘をつきました。全然楽しくないのに笑って、早く帰りたいなと思いながら案内したり、今それ言ったばっかだよねと内心イラつきながら笑顔で繰り返し教えたりしていました。
それでも心からの「ありがとう」が返ってきます。相手は一様に、私が心から親切に教えてくれたと思っているからです。

私は東京の面接の時、「ここの世界観が好きで」「皆キラキラ輝いている場所」そんな頭の悪いことを言ったような記憶があります。
そして、米のエッセイでも同じような事を言いました。
内心で何を思っていても、実情がどうであっても、私達は輝いています。それは、作り物の笑顔が自然になる訓練をされたからではなく、義務の親切が習慣になったからでもなく、それを「心から行っていると見られる」ことによって「心から行うようになった」からだと思います。

ある意味で偽善ですね。人間は難しいですから。やっぱり誰かしらには揚げ足を取られるのです。

ただひとつ言えるのは、他人に何を言われても、私はその「偽善」を追求したいと思うのです。

本のはなし

書物を迷宮として読む

耳障りが良い言葉ですね。清水徹の都市論のエッセイを読んでいたら、こんなことが定義されていたのです。

書物は本と言い換えられて、迷宮はそうですね、難しい空間です。

本を生真面目に前から順に読むということを、私は出来ない。そもそも本をたくさん読むのかと言われたら、間違いなくたくさんは読んでいないんですが、本を読むのは賢くなった気がして好きです。
でもこれは正解なのかも知れないと思う。誰が本は前から順番に読まないと行けませんよと決めたんだろう。

といっても、私の場合前から読めないのは甘えた話で、エッセイや論文の場合は単に集中できないから。
例えば本を読み始めるとして、序文は大体要旨を説明しているにしても、抽象的すぎて難解。本を読みはじめてすぐ集中できる人間ではないので、没頭するために具体のところから読みたい。そうなるとまず目次を見て、興味のひかれるところから見ていくようになってしまいますね。

小説は結末を知っていて安心した状態じゃないと嫌なのです。最後に主人公が病気して錯乱してサナトリウムにいれられたとおもったら実はサナトリウムですらなかった完全に狂ってしまっていましたとかいう悲しいのは、事前に知っていないとクライマックスが読めない。結末をしらないでこれは嫌な感じだなと一度なってしまったらそこから本を読み進められないのです。子供なので。

前田愛がタイトルは物語の展開を規制するものであり、内容を意識してつけるものだと言っていた。それでもって書き出しが物語のミニチュアらしい。

個人的には物語のミニチュアがタイトルなのかと思っていました。

そういえば、最近のラノベとかはやたら長いタイトルが多いですよね。完結した語ではなくて(修飾語で長くなっている場合はこちらに含ませてください)文章にしてしまっているやつ。
元々はキャッチーでしょ、親しみやすいでしょ、という意図でつけられたんでしょうが、ここまでくるとダサいですね。
無意味に難しい漢語を羅列するよりマシか。

今日入ったカフェでお水ではなく熱い白湯が出て来て良かったです。
冬は全店統一で行ってほしい。