本のはなし

書物を迷宮として読む

耳障りが良い言葉ですね。清水徹の都市論のエッセイを読んでいたら、こんなことが定義されていたのです。

書物は本と言い換えられて、迷宮はそうですね、難しい空間です。

本を生真面目に前から順に読むということを、私は出来ない。そもそも本をたくさん読むのかと言われたら、間違いなくたくさんは読んでいないんですが、本を読むのは賢くなった気がして好きです。
でもこれは正解なのかも知れないと思う。誰が本は前から順番に読まないと行けませんよと決めたんだろう。

といっても、私の場合前から読めないのは甘えた話で、エッセイや論文の場合は単に集中できないから。
例えば本を読み始めるとして、序文は大体要旨を説明しているにしても、抽象的すぎて難解。本を読みはじめてすぐ集中できる人間ではないので、没頭するために具体のところから読みたい。そうなるとまず目次を見て、興味のひかれるところから見ていくようになってしまいますね。

小説は結末を知っていて安心した状態じゃないと嫌なのです。最後に主人公が病気して錯乱してサナトリウムにいれられたとおもったら実はサナトリウムですらなかった完全に狂ってしまっていましたとかいう悲しいのは、事前に知っていないとクライマックスが読めない。結末をしらないでこれは嫌な感じだなと一度なってしまったらそこから本を読み進められないのです。子供なので。

前田愛がタイトルは物語の展開を規制するものであり、内容を意識してつけるものだと言っていた。それでもって書き出しが物語のミニチュアらしい。

個人的には物語のミニチュアがタイトルなのかと思っていました。

そういえば、最近のラノベとかはやたら長いタイトルが多いですよね。完結した語ではなくて(修飾語で長くなっている場合はこちらに含ませてください)文章にしてしまっているやつ。
元々はキャッチーでしょ、親しみやすいでしょ、という意図でつけられたんでしょうが、ここまでくるとダサいですね。
無意味に難しい漢語を羅列するよりマシか。

今日入ったカフェでお水ではなく熱い白湯が出て来て良かったです。
冬は全店統一で行ってほしい。