大好きなところのはなし

世の中は醜くて、それは知っているんですけど、どこか虚構を受け入れたくはないので、常に希望を持ってしまっています。

私は夢を見るのが好きなんだとおもいますね。
空想の世界で誰かが故意に作り上げた幻想であっても、それを見て、わーいたのしーってやれてればそれが正解なんだと思っています。

そういう人たちが前のバイト先にはたくさんいました。私たちは夢を作っていました。美しいものだけを魅せるために教育されていました。

落ちているゴミを拾うのは当たり前です。女の子が買ってもらった風船に喜んで、くるくる回っていたら風が強く吹いてきて飛ばされてしまいました。見つけた私達はすぐに言います。「大丈夫だよ、今から魔法で元通りにしてもらうからね‥‥」
お母さん一人と小さい子二人つれて遊びに来たんでしょう。とても大変そうです。そしたら荷物をもってあげますね。
これが自然になります。

私達も夢に浮かされているし、相手も夢に浮かされています。
でもこの世界での優しさは多分虚構じゃない。最初は虚構で模倣で義務だったかもしれない。「そうしなければならなかった」

憤りを感じたことはあまりありませんが、強く呆れたことは何度もあります。

私達は優しくあることを求められていた。「すごいね」「こんなことまでしてくれるんだね」
最初の半年はこの言葉を引き出すために、こんな教育を施して徹底しているが、なんて偽善的なんだろうと思っていました。

でも笑顔に偽物はないんです。私はあの場所でたくさんの嘘をつきました。全然楽しくないのに笑って、早く帰りたいなと思いながら案内したり、今それ言ったばっかだよねと内心イラつきながら笑顔で繰り返し教えたりしていました。
それでも心からの「ありがとう」が返ってきます。相手は一様に、私が心から親切に教えてくれたと思っているからです。

私は東京の面接の時、「ここの世界観が好きで」「皆キラキラ輝いている場所」そんな頭の悪いことを言ったような記憶があります。
そして、米のエッセイでも同じような事を言いました。
内心で何を思っていても、実情がどうであっても、私達は輝いています。それは、作り物の笑顔が自然になる訓練をされたからではなく、義務の親切が習慣になったからでもなく、それを「心から行っていると見られる」ことによって「心から行うようになった」からだと思います。

ある意味で偽善ですね。人間は難しいですから。やっぱり誰かしらには揚げ足を取られるのです。

ただひとつ言えるのは、他人に何を言われても、私はその「偽善」を追求したいと思うのです。